いのちの完成、復活の夜明け
生と死の境界
生と死のあいだに、本当に境界はあるのだろうか。
ジョン・バニヤンは『天路歴程』の中で、死を一本の川として描いた。
しかし、実際にはその境界は存在しない。
死とは、単なる生物学的な変化にすぎず、
神の時間の中では “いのちからいのちへ” と移る通路である。
主イエスは十字架と復活によって、すでにその道を渡られた。
その方のうちにあるなら、
死はもはや断絶ではなく、
永遠へと招かれる “門” にすぎない。
死の川のほとりで
クリスチャンと希望(ホープフル)はついに死の川へとたどり着いた。
濃い霧が立ちこめ、水は深く、暗く渦を巻いていた。
「…何も見えません。」
クリスチャンの声は震えていた。
希望がその手を強く握りしめた。
「兄弟よ、平安を与えるのは信仰です。
自分の力で渡ろうとしないでください。
主があなたを渡らせてくださいます。」
川の波は激しく、
砕けた水しぶきが二人の顔を打った。
「希望よ…私は沈んでいく!
私の罪が私を引きずり込みます!」
「あなたの罪は、すでに十字架に打ちつけられました。
目を上げてください! ほら、あの光が見えるでしょう!」
クリスチャンは震える頭を上げ、
彼方にかすかな光を見つめた。
「……見えます。向こう岸が…見えます。」
二人は互いの手をしっかり握り、
荒れ狂う水をかき分けながら進んだ。
死の川は、ついに彼らを飲み込むことができなかった。
天の門の前で
輝く光が二人の巡礼者を包んだ。
すると二人の天使が現れ、優しく語りかけた。
「あなたがたはもう、
丘の高低に悩まされることはありません。
すでに肉体を置いてきたのですから。」
二人はふわりと軽くなり、
まるで魂そのものが歌うかのように
天の都の門へとゆっくり昇っていった。
コウノトリ〈プルミ〉の死
私は、死の川の前に立つたびに一羽の命を思い出す。
コウノトリの「プルミ」である。
プルミはドイツ・バルツローデ鳥類公園で生まれ、
晩年になって韓国へやって来た。
すでに高齢のコウノトリで、
私は彼の最期の日々をともに過ごした。
冬が深まるにつれ、
彼は餌を口にしなくなった。
羽ばたく力も衰え、
ヒーターの温もりなしでは一夜も越せなかった。
そして、死を静かに受け入れるように
部屋の隅にうずくまり、
目を閉じ、微かな呼吸だけが続いた。
私はただ黙ってそのそばに座り続けた。
プルミは32歳――
人間に換算すれば80歳でこの世を去った。
その最期は驚くほど静かで、
その瞳には恐れの影すらなかった。
彼は、自然のふところへ帰っていったのだ。
その瞬間、私は悟った。
死は破壊ではなく、帰郷である ということを。
死の意味
私は時折こう自問する。
「私も、プルミのように死を迎えられるだろうか。」
人は“長く生きる方法”ばかりを研究するが、
“どのように死を準備するか”はほとんど知らない。
しかし、信仰者は違う。
死を備えることこそ、
信仰を完成へ導く道である。
詩篇記者の言葉のように―
「彼らは死に際しても苦しみがなく、
その力は健やかで、災いもない。」(詩篇73:4-5)
死の川を渡るその瞬間にも、
神は変わらず私たちのそばにおられる。
私たちは決して独りではない。
私たちとともに渡られる“希望”――
それは、主イエス・キリストその方である。
巡礼者の祈り
「主よ、
プルミが最後の息を静かに整えたように、
私も安らかにあなたの胸に抱かれますように。
苦しみではなく平安で、
恐れではなく信仰で、
あの川を渡らせてください。
向こう岸で、
あなたの御手を見させてください。」
アーメン。
ろばに乗られたイエス
ソンイシドル巡礼路の終わり、
私はエルサレム入城を描いた像の前に立った。
主のまなざしは静かで、
その奥には揺るがぬ決意が宿っていた。
群衆は歓声をあげた。
「ホサナ! ダビデの子よ!」
しかし、主は微笑まれなかった。
すでに十字架を見つめておられたからである。
イエスは馬に乗られなかった。
平和の象徴である “ろば” に乗られた。
「まだ誰も乗ったことのないろばの子がつながれている。
ほどいて連れて来なさい。
主がお入り用なのだ。」(ルカ19:30-31)
私は静かに思った。
「私の心にも、まだつながれたままのものがあるのではないか。」
主に差し出しきれなかったもの、
今こそ解き放つべきものがある。
「主がお入り用なのだ。」
その言葉の前に、私はすべてをおゆだねする。
十字架の死刑宣告を受けた日
図17-4:ピラトの前に立つイエス
その日、主は沈黙しておられた。
声を荒らげて弁明することもなく、
不当さを訴えることもなさらなかった。
権力の座に着くポンティオ・ピラトの前に、
縛られた手のまま、静かに立っておられた。
天地の主が、人間の法廷に立たれたのである。
それはあきらめではなかった。
逃げ場がなくての沈黙でもなかった。
その沈黙は従順であり、
その従順は愛であった。
「この杯を取り除いてください。」
しかしついに、
その苦い杯をみずから飲み干された。
鞭によって肉は裂かれ、
茨によって額は刺され、
血が御顔を伝って流れ落ちた。
その苦しみは偶然ではなかった。
だれかの罪の代価が、
その御体に刻まれていたのである。
私はその光景の前に立つことができない。
いや、立っていることができない。
主のまなざしが私の内を見つめるとき、
隠していた私の罪が
光の下にあらわになる。
私はその愛を知りながら背を向け、
赦されながら、また倒れた。
それでも主は
私のかたくなさを長く忍んでおられた。
立ち返る日を待つかのように、
黙して耐えておられた。
ピラトの前に立つその御姿が
私への愛そのものであると悟った瞬間、
私はもう立っていられなかった。
膝が折れ、
涙が落ちた。
一滴、また一滴。
冷たい石畳に落ちるその音が、
私の心を打った。
その日、死刑宣告は主に下された。
しかし本当に裁かれるべきだったのは、
この私であった。
四旬節の道の上で、
私は再びその法廷の前に立つ。
そして問う。
私は今も群衆の中に立っているのか。
それとも、ひざまずく弟子なのか。
十字架は
遠い昔の処刑具ではない。
今日もなお、私を呼ぶ愛である。
その愛の前で、
私は再び頭を垂れる。
見知らぬ者として来られた復活の主
イエスは復活後、
ご自分を殺した者たちの前には現れられなかった。
ピラトにも、カヤパにも姿を見せられなかった。
主は “見知らぬ者” としておいでになった。
マグダラのマリアには庭師の姿で、
エマオへ向かう弟子たちには旅人として、
湖畔の弟子たちには一人の漁師として。
そして今も、
主は私の日常の中に “見知らぬ顔” で現れてくださる。
「わたしはあなたを愛している。
あなたの荷を見てきた。
あなたの弱さも知っている。
しかし、わたしは決してあなたを離さない。」
エマオへの道
絶望の中、
エルサレムを離れていた二人の弟子。
彼らは復活された主がそばにおられるのに、
気づくことができなかった。
しかし、道々語られる主の言葉を聞いているうちに、
彼らの心は燃え立った。
「道でお話しになり、
聖書を解き明かしてくださった時、
私たちの心は燃えていたではないか。」
(ルカ24:32)
その “燃える心” は、命の始まりであった。
主がパンを裂かれたとき、
彼らはついにその方を認めた。
そしてすぐに立ち上がり、
再びエルサレムへ走り戻った。
「主は生きておられる!」
絶望は終わりではなかった。
それは復活へと通じる “扉” であった。
キリストの復活
パウロはローマ人への手紙でこう語る。
「罪の報酬は死である。」(ローマ6:23)
しかし、彼はそこで立ち止まらない。
別の書簡において、彼はさらに深い秘義を明らかにする。
「死ぬべきものが、命にのみ込まれるためである。」(Ⅱコリント5:4)
聖書をさかのぼって読むと、
私たちは本来、死を前提として生まれた存在ではなかったことが分かる。
命は初めから神につながっており、
罪がその結びつきを断ち切った。
その結果として現れたのが「死」であった。
ゆえに、聖書が語る死とは、
単なる生物学的な停止ではなく、
命からの分離を意味する。
アダムとエバが罪を犯す以前の状態は、
神、すなわち命の源と結ばれていた状態であった。
キリストの復活は、
死が消えるという消極的な回復ではない。
それは、より強い命、
イエスの命――ゾーエ(Zoë)が
私たちの内に入り、
死の力を圧倒し、飲み尽くす出来事である。
この命が私たちの内に宿るとき、
私たちの体はなお死ぬべきものであっても、
私たちの霊はすでに
キリストの復活の命によって生きている。
私たちはもはや以前の存在ではない。
新しい被造物なのである。
「罪の報酬は死である」という古い秩序は、
「キリスト・イエスにある
いのちの御霊の法則」(ローマ8:2)によって、
静かに、しかし完全に置き換えられる。
永遠の命とは、
単に長く生きる時間の問題ではない。
それは、誰の命によって生きるのかという問題であり、
存在の身分が変えられる出来事なのである。
私の前にある死の川
今、私は
巡礼者としての最後の道の前に立っている。
目の前には、死の川が流れている。
しかし、恐れはない。
エマオの主が
今も私と共に歩んでおられるからである。
「イエスを死者の中から
よみがえらせた方の御霊が
あなたがたの内に住んでおられるなら、
その方はあなたがたの死ぬべき体をも
生かしてくださる。」(ローマ8:11)
死は終わりではない。
主はすでにこの川を渡られた。
そして今、私たちは
主の内にあって再び生きる。
私はこの命の道を信頼しながら、
川辺に立つ。
そして静かに、
この巡礼の幕を下ろす。