人生という巡礼の途中で、導きを受ける場所
道の上の巡礼者に必要なもの
人生を成功へと導くためには、誰にでも師(メンター)が必要である。
ましてや天の国を慕う巡礼者なら、なおさらである。
クリスチャンにも、そうした導き手がいた。
それが「解釈者(インタープリター)」である。
彼はクリスチャンがシオンの都へ向かう巡礼の途上で、
心に深く刻むべき真理と霊的な洞察を教える師であった。
信仰の旅の中で、私たちは必ず導き手に出会う。
解釈者とは、私たちの人生を御言葉の光で読み解き、
迷わぬように導く霊的な指導者である。
重荷を下ろした者
狭い門を通ってきたクリスチャンは、
ついに背負っていた重い荷を下ろした。
体は軽くなり、手には天の市民権を象徴する巻物が握られていた。
彼は「善意(ぜんい)」の案内を受けて、解釈者の家にたどり着いた。
扉の前に立ち、静かにこう言った。
「私は滅びの町から来た旅人です。
あなたの知人が、『ここに来れば益あるものを見られる』と教えてくださり、参りました。」
しばらくして、解釈者が扉を開けて現れた。
クリスチャンは頭を下げて言った。
「私はシオン山を目指す巡礼者です。
この旅に役立つことを見せてくださると聞き、伺いました。」
解釈者は穏やかに微笑みながら答えた。
「よくぞ来られました。あなたに必要なものをお見せしましょう。」
「灯をともせ」
解釈者は従者に命じた。
「灯をともせ。」
そしてクリスチャンに言った。
「さあ、私について来なさい。」
この場面は単なる訪問ではない。
それは御言葉の光のもとで、真理を悟る瞬間である。
解釈者の家とは、教会であり、霊的メンターの空間であり、
同時に、神の言葉と聖霊の照明のもとで
私たちの人生が解き明かされる場所なのだ。
水を撒く者と、ほうきで掃く者
解釈者はクリスチャンを古びた客間へ案内した。
部屋の中は埃でいっぱいだった。
召使いがほうきを使って掃くと、
埃が舞い上がり、息もできないほどだった。
すると、ひとりの女が水を持って入り、
部屋中に撒くと、埃は静かに沈み、部屋は清められた。
解釈者は説明した。
「この部屋は人間の心を象徴している。
埃は堕落した本性、ほうきは律法、水は福音である。
律法は罪を明らかにするが、洗い清めることはできない。
だが、福音は恵みの水となって罪を沈め、
心を聖なる神殿へと変えるのだ。」
黙想ポイント
私は罪に敏感に反応しているだろうか。
律法なき福音は「安価な恵み」となり、福音なき律法は「絶望」となる。
今の私の信仰は、均衡を保っているだろうか。
欲望と忍耐
次に、解釈者は二人の少年がいる部屋へクリスチャンを案内した。
少年の名は「欲望(よくぼう)」と「忍耐(にんたい)」だった。
欲望は「今すぐ贈り物をください!」とせがみ、
忍耐は父の約束を信じて静かに待っていた。
やがて欲望はすぐに消える宝物を受け取って喜んだが、
残ったのはぼろ切れだけだった。
解釈者は言った。
「欲望は現世のみを見つめる者を、
忍耐は来るべき神の国を待ち望む者を象徴している。
今の快楽は一時にすぎない。
しかし神の約束は永遠である。」
使徒パウロもこう語った。
「私たちは見えるものではなく、見えないものを見つめる。
見えるものは一時的だが、見えないものは永遠である。」
(コリント後書 4:18)
黙想ポイント
私は即座の満足を追っていないか。
私の選択基準は「今」か、それとも「永遠」か。
油を注ぐ者と、水をかける者
解釈者はクリスチャンを燃えさかる暖炉の前に立たせた。
ひとりの人が水をかけて火を消そうとしていたが、火は消えるどころか、
ますます勢いを増して燃え上がった。
不思議に思うクリスチャンを、解釈者は壁の裏へと導いた。
そこには、見えない誰かが油を注ぎ続けていた。
解釈者は説明した。
「火は恵み、水をかける者は悪魔、
そして油を注ぐ者はキリストである。
悪魔は恵みの火を消そうとするが、
主が絶えず油を注ぎ続けておられるゆえに、
その火は決して消えることがないのだ。」
黙想ポイント
私の心の中の「恵みの火」は、今どんな状態にあるだろうか
見えないところで恵みを注ぎ続けてくださる主を、私は信頼しているだろうか。
私にとって解釈者とは誰か?
ダマスコへ向かう途上で
— パウロの証し、夢の言語で —
その日、一つの旅は変革へと変わった。
一人の男がダマスコへ向かっていた。
彼の眼差しには正義の炎が燃え、
その目的には確信と断罪が宿っていた。
彼は福音を語る者たちを縛り、
エルサレムへ連行しようとしていた。
道は平坦だった。
彼の心は恐れなく固定されていた。
自分こそ真理の守護者だと、固く信じていた。
その確信は石のように硬かった。
しかし現れたのは、
道の風景の変化ではなかった。
それは、光の爆発だった。
光は天から落ちてきたのではない。
むしろ彼の魂の内から、火のように噴き上がった。
それは命の本質を貫き、
彼が拠り所としていたすべての確信を揺るがした。
男は地に倒れた。
身体は崩れ落ち、
もはや彼の目は彼を導かなかった。
光が目を焼いたのではない。
彼がこれまで頼ってきた
すべての見せかけが焼き尽くされたのだ。
そのとき、声が響いた。
「サウロ、サウロ……」
それは権威的な命令ではなかった。
永遠からの呼びかけであり、
それ自体が真理だった。
問いはただ一つだった。
「なぜ、わたしを迫害するのか。」
その場で、亀裂が生じた。
確信と疑いの境界が裂け、
光と影の継ぎ目が露わになった。
サウロが捕らえようとしていた対象は、
彼の視界から消え去った。
その代わりに開かれたのは、
人々の顔の上に重ねられた、
もう一つの顔だった。
彼は気づいた。
自分が縛ろうとしていた命こそが、
命のしるしであったことを。
そのとき、彼は完全に崩れ、
自分が掴んでいたのは
自らの確信だったのだと悟った。
光が去ったとき、
旅は終わらなかった。
むしろ、始まったのだった。
サウロはもはや、
「パウロ」と呼ばれる前の人ではなかった。
彼は新しい名の敷居に立ち、
光から投げかけられた問いの中心に立っていた。
ダマスコへ向かう彼の行軍は、
もはや方向を失った正義の闘争ではなかった。
それは命へと向かう帰郷となり、
自分自身に向けられた召しに応える歩みとなった。
かつて彼の目を盲目にした光は、
やがて彼のすべての場所と使命を
明るみに照らし出した。
そしてその名は、
世界史の軌道の中に
再び刻まれた。
図4–5:ダマスコ途上で目が見えなくなった使徒パウロ
「これは単なる歴史的出来事ではない。
一人の〈解釈者〉が、私の人生に入り込んできた出来事だった。」
使徒パウロ ― 私の解釈者
クリスチャンに解釈者がいたように、
私の人生にも「解釈者」がいた。
それは使徒パウロである。
彼はもとは教会を迫害する者であったが、
ダマスコ途上で復活の主に出会い、回心した。
その日以来、彼は教会を建て上げる最も力強い解釈者となった。
パウロは語った。
一人の人の不従順によって罪が入り、
また一人の人の従順によって命が与えられた、と。
(ローマ 5:18–19)
恵みは罪よりも大きく、死をも飲み込む。
私は彼の手紙を読むたびに、新しい光を受ける。
特に『ローマ人への手紙』は、私の霊的な人生を導く羅針盤である。
ユージン・ピーターソンはこう語った。
「パウロのローマ書は、ローマ帝国の哲学や文学よりも
はるかに深い影響を与えた。」
その言葉は、決して誇張ではない。
私が愛するもう一人 ― ペテロ
私の「解釈者」はパウロだけではない。
私はシモン・ペテロをも愛している。
彼は学問的には何の肩書もなかったが、
主に召され、教会の柱となった。
彼が残したのは『ペテロの手紙 一・二』のわずか二通。
しかし、その中には永遠の国への確信が息づいている。
神は、パウロのように卓越した知性を持つ者も、
ペテロのように平凡な漁師も、
ともに選び、用いられる。
ペテロは多くを語らなかったが、
その沈黙の背後に、十字架の真実があった。
神は人の能力や家柄ではなく、
「従う心」をご覧になる。
巡礼者の願い
私の記録も、パウロやペテロの書簡のように、
誰かの信仰の道を照らす小さな灯となりたい。
クリスチャンが「解釈者の家」で
真理の導きを受けたように、
私の言葉と絵もまた、
誰かの人生を読み解き、希望をともす
一筋の光となることを願っている。