第5章 単純・怠惰・傲慢

そして虚礼と偽善

by 박시룡


三人の女の名

巡礼の途上、クリスチャンは丘のふもとで三人の女を見つけた。
彼女たちの名は「単純」「怠惰」「傲慢」であった。
手首には鎖が巻かれていたが、彼女たちはそれを罪の鎖とは思っていなかった。

5-1 Foolish (right) Slothful (centre) Presumpiton(left) (2022).jpg 絵 5–1 単純・怠惰・傲慢という名の三人の女

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「単純」

は安逸の中にとどまり、こう言う。

「このままで十分幸せじゃないですか。」

無知と無感覚

は祝福ではない。

真理への無関

心は、やがて心の油断

となる。

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「怠惰」

は怠けた魂を象徴する。

 「少し休んでおしゃべりでもしましょう。」
 それは肉体の怠けではなく、祈りを後回しにし、
 御言葉を閉ざす霊的な怠惰である。

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「傲慢」

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はこう言い放つ。

「他人のことに口を出さず、自分のことをしなさい。」

御言葉の警告は耳に届

かず、忠告は攻撃

と受け取る。

クリスチャンは涙をもって彼女たちを引き止めようとしたが、

三人はついに悔い改めることなく、彼は再びひとりで歩き出した。


塀を越えてきた者たち

やがてクリスチャンは二人の男に出会った。
彼らの名は「虚礼」と「偽善」であった。

5-2 Formalist and hypocrisy (2022).jpg 絵 5–2 塀を越える虚礼と偽善

彼らは門からではなく、塀を越えて入ってきた。

イエスが言われたように、
「門を通らずに入る者は、盗人であり強盗である。」(ヨハネ 10:1)

虚礼は信仰の外形だけを追う。
礼拝の出席、儀式や形式には熱心だが、心に命はない。

偽善は唇では敬虔を語るが、
その生き方は世と何ら変わらない。

彼らは狭い門を避け、近道を選んだ。
だがその道の果ては、滅びであった。


巻物を取り出すクリスチャン

この光景を見たクリスチャンは深く心を痛めた。
彼は懐から巻物を取り出し、静かに読み始めた。
それは十字架の前で授かった「恵みの証」であった。

御言葉を読むうちに、
彼の心は再び固く立て直され、
その足は再び真理の道を踏み出した。


黙想私は

「単純」のように無感覚ではないか。

「怠惰」のように、知りながら行わない者ではないか。

「傲慢」のように、忠告を拒む心を持っていないか。

「虚礼」のように、信仰を外形だけで飾っていないか。

「偽善」のように、信仰と生活が乖離していないか。


蟻から学ぶ知恵

聖書はこう語る。

「怠け者よ、蟻のところへ行き、そのすることを見て知恵を得よ。」(箴言 6:6)

5-3 Spirituality from the Ants (2019).jpg 絵 5–3 蟻

私たちは蟻を「勤勉の象徴」として学んできた。

しかし動物行動学の観点から見れば、
蟻の活動は信念ではなく、生存本能によるものだ。

それでも聖書は、蟻の姿を通して人の怠惰を戒める。
その秩序と協働の中に、神の摂理が見えるからである。

ハーバード大学のエドワード・ウィルソン教授は、
一生をかけて蟻を研究し、社会生物学の道を切り開いた。
私は彼の著作を翻訳する過程で、
小さな生命の中にも神が与えた秩序があることを新たに悟った。

蟻の社会には、清掃係、葬儀係、収穫者など
多様な役割が存在する。
匂い一つで職分が分かれ、秩序が守られている。
人類よりはるかに古いその社会は、
創造主の摂理を静かに物語っている。

私はその沈黙の働きの中に、
神の声を聞く。


神としての人間を見上げる蟻たち

フランスの作家ベルナール・ウェルベルは、
小説『蟻(Les Fourmis)』の中で、
蟻たちが人間を「神」として崇めるという想像の世界を描いている。

「福音に似た言葉が蟻の社会に広がり、
『指』という宗教的象徴が信仰の印となる。
新しい女王蟻は信仰を嫌い、神を信じる蟻たちを迫害する。
しかし『指』を神と仰ぐ蟻たちは、
預言者である蟻を逃がすために命を懸ける。
彼はやがてミミズの体に入り、
空へ舞い上がるシジュウカラによって『神の国』へと運ばれていく──。」

その物語は信仰を皮肉る寓話のようでありながら、
同時に「創造された存在としての限界」を静かに問う。

私はある日、ソウルの仁王山に登り、
岩の上を這う一匹の蟻を見つめていた。
指先で岩を軽く弾いた瞬間、
蟻は驚き、稲妻のように逃げ去った。
その震動は、彼らにとって雷鳴であり、天地の揺れであったのだ。

そのとき私は悟った。
――私はその蟻にとって、「神」のような存在だったのだ。

5-4 Ants, Gods and Men (2021).jpg 絵 5–4 神のような存在として人間を仰ぐ蟻

花の名を呼ぶ者

E.O.ウィルソン教授と私は、
同じ被造物を見つめながらも、結論は異なっていた。
彼は無宗教者であり、私は信仰者だった。

私は作家・李哲煥(イ・チョルファン)の短い言葉を思い出す。

「花の名を知りたいなら、
いつか花が自らその名を教えてくれるだろう。」

実際には、通りすがりの人が「スズランがきれいですね」と言っただけだった。
けれど、それもまた神の方法だった。

私は長い歳月、その花の前に座り続けた。
その名を知りたくて。
だがウィルソン教授はそうではなかった。

そしてついに、使徒パウロが私に教えてくれた。
その花の名は――「恵み」だと。


変わることのない告白

使徒パウロはこう告白した。

「私はキリストと共に十字架につけられた。
もはや私が生きているのではなく、
キリストが私のうちに生きておられるのだ。」
(ガラテヤ人への手紙 2章20節)

世の中はノーベル賞を受けた科学者を称賛する。
だが私は、私のために十字架を背負われた
イエスの御名を知っている。

その御名を伝えること、
それこそが、私が歩む巡礼の理由である。


最後の黙想

私は「単純・怠惰・傲慢」の道を歩

んでいないか。

それとも「狭き門」を通ろうとしているか。

「虚礼と偽善」の近道を選んでいないか。

それとも「真理の道」を選んでいるか。

私は蟻のように、

小さな秩序の中にさえ、神の摂

理を見ているだろうか。


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