困苦の季節
困苦の季節
人生には、明るい季節もあれば、
必ず「困苦の季節」が訪れる。
そのときには、「信仰」という言葉さえ、
聖書の一文字さえ、心に入ってこない。
祈りはこだまのように消え、
神は遠くにおられるように感じられる。
私もまた、そのような時を過ごした。
そのとき、私は一羽のコウノトリの死の前に立っていた。
コウノトリの死と私の困苦
私のそばにいた一羽のコウノトリ、
「サンファン(山黄)」は、
遥か異国の地で命を落とした。
それは科学者としての観察記録ではなく、
生命との交わりが断たれた虚脱だった。
私はその死を悼んだ。
しかし、その死を共に悲しむ者は、ほとんどいなかった。
その事実が、私を深い孤独へと追いやった。
それは単なる動物学者の感傷ではない。
創造の秩序の中で消えていく命の前に立つ者として、
神の摂理を知る者が沈黙の重さを味わう瞬間であった。
臆病と不信
『天路歴程(てんろれきてい)』において、
クリスチャンは「虚礼」と「偽善」を離れ、
「困苦の丘」へと向かう。
そこは霊的低迷の象徴であり、
信仰の旅の途中、必ず通らなければならない峠である。
丘の中腹で、彼は二人の巡礼者に出会った。
名は「臆病(おくびょう)」と「不信(ふしん)」であった。
臆病は言った。
「これからもっと危険が待っている。
どうしてこの道を進めるというのか? 私は引き返す。」
不信は叫んだ。
「前方に獅子がいる。
行けば食い殺されるだけだ!」
彼らは、まだ訪れてもいない苦難への恐れのために、
信仰の道をあきらめ、後戻りした。
その道は、やがて滅びの都へと続いていた。
未来の不安を口実にして、
信仰を捨てる者たちがいる。
だが、恐れは決して安全をもたらさない。
むしろ、滅びへと導く。
引き返せない理由
クリスチャンは知っていた。
彼らが戻っていく道は、
硫黄と炎で燃え上がる滅亡の都であることを。
だからこそ、彼は遅くとも、危険であっても、
前へ進むことを決意した。
手と膝で這いながら登り続け、
ついに力尽きて、丘の中腹の大きな木陰でまどろんだ。
しかし、深い眠りのあいだに、
彼は手にしていた巻物を落としてしまった。
その巻物は、十字架の前で授かった「救いの証」。
天の都に入るための入場証だった。
それを失うことは、
自らの存在の証を失うことに等しかった。
困苦の瞬間に学ぶこと
この場面は、私たちの日常そのものである。
困難なとき、人は最も大切なものを見失いやすい。
聖書を閉じ、祈りをやめ、礼拝を忘れる。
まるで巻物を落としたクリスチャンのように、
私たちも「救いの喜び」と「確信」を落としてしまうのだ。
黙想の問い
私は今、臆病者のように逃げてはいないか?
不信のように、まだ来てもいない問題を恐れてはいないか?
巻物
――
すなわち福音の喜びを、どこかに落としたまま
歩
いてはいないか?
再び巻物を手にして
一羽のコウノトリの死が、
私の心の時を止めたその日、私は悟った。
――私もまた、困苦の丘を這い上がるクリスチャンなのだと。
その日、私は再び巻物を手にした。
十字架の前で授かった恵み、神の言葉、
そして再び立ち上がる力を握りしめた。
怠惰と霊的な眠りは、いつも最も大切なものを奪う。
しかし主は言われる――「再び立ち上がり、巻物を取り戻しなさい」と。
サンファンの死と目覚める信仰
彼の霊的な眠りを覚ましたのは、
ただ聖書の言葉だけではなかった。
一羽のコウノトリ――「サンファン(山黄)」であった。
サンファンは単なる渡り鳥ではない。
自然科学者として、生命の神秘を探究し続けた夢の象徴だった。
2015年、自然復帰後に初めての飛翔を始めたサンファンは、
一千キロを超える海を単独で渡り、
前例のない移動経路を示した。
だがその発信音は、日本の沖永良部島(おきのえらぶじま)付近で途絶えた。
数日後、日本の報道を通じて、
サンファンが焼却処分されたと知らされた。
私は衝撃と悲しみの中で、
空港に抗議し、検察庁へ告発まで行った。
しかし戻ってきたのは、
「不起訴処分通知書」一枚だけだった。
科学者としての夢、
民族としての自尊心、
そして何より、サンファンを守れなかった罪責感――
それらが一度に押し寄せてきた。
「果たして私の国は、真の主権国家なのか?」
「私は科学者として、この命を守り抜いたのか?」
「サンファンは、なぜ死なねばならなかったのか?」
クリスチャンが眠りの中で巻物を落としたように、
私もまた、サンファンの死の前で深い眠りから覚めた。
その出来事は、単なる挫折ではなかった。
それは――霊的な覚醒の時であった。
苦難の意味
聖書は言う。
「私たちは神の国に入るために、多くの苦難を経なければならない。」(使徒 14:22)
「私たちは何を祈るべきかさえ知らないが、
聖霊ご自身が言葉に尽くせぬ呻きをもって私たちのために祈ってくださる。」(ローマ 8:26)
サンファンの死は私を打ち砕いたが、
同時に、再び御言葉を握らせる契機となった。
それは悲しみの時ではなく、
目覚めの時であった。
神の思いと私の思い
私はしばしば自問する。
「私は今、神と共に歩んでいるのか?」
「コウノトリの復元は、私の情熱なのか、神の使命なのか?」
ヘブライ書の著者は言う。
「キリストは永遠の御霊によってご自身を完全な捧げものとして神にささげ、
私たちを自力で義を得ようとするむなしい労苦から解放された。」(ヘブライ 9:15)
私は今、理解する。
これまでの復元の働きは、
いつしか自分の名を輝かせるための努力になっていたことを。
それが――神が造られた命を新しくする、
信仰の旅であることを忘れていたのだ。
再び巡礼者として立つ
ヘブライ書11章には、信仰の祖たちが記されている。
アベル、エノク、ノア、アブラハム……
彼らは自らを偉大にしようとはしなかった。
ただ神を信頼し、神が彼らを偉大にされたのだ。
私も、そうありたい。
論文のためでも、賞のためでも、
名誉のためでもなく、
ただ神を喜ばせるために生きたい。
そして――神が認めてくださる人生を歩みたい。
結びの告白と祈り
「今や、私が生きているのではなく、
私のうちにキリストが生きておられる。」(ガラテヤ 2:20)
今、私は自分の意志ではなく、
主の御心に従い、巡礼者としての道を歩もうとしている。
コウノトリのように弱くても、
信仰によって天を目指して飛び立ちたい。
✍ 巡礼者の祈り
神よ、私は眠っているあいだに巻物を落とし、
与えられた使命を失っていたことを告白します。
サンファンの死を通して、
再び私を目覚めさせてくださった主に感謝します。
どうかもう一度、巻物をしっかりと握り、
最後まで歩み通すことができますように。
臆病にも、不信にもならず、
真理の道で眠ることがありませんように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。