休息の場、回復の時、そして再び歩み出す信仰の旅
苦難の彼方にある霊的な美
もし苦難があるなら、その彼方には必ず神の恵みがある。
私はドイツのある静かな村、
その中の「美しき家(The House Beautiful)」で、
主からの贈り物のような時間を過ごした。
そこでは毎食、単なる食物ではなく――
まさに「主のいのち」をいただく恵みを体験した。
「わたしは命のパンである。
わたしを食べる者は、永遠に生きるであろう。」
(ヨハネによる福音書 6章35節)
それは日々の糧への感謝を超えた体験だった。
その「いのちのパン」は、私の内に主の息吹を新しく吹き込み、
その瞬間、私の人生の方向が変わり始めていることを感じた。
使徒パウロはこう語る。
「それゆえ、私たちは落胆しません。
たとえ外なる人は衰えても、
内なる人は日々新たにされていくのです。」
(コリント後書 4章16節)
バニヤンの物語に登場する「美しき家」
ジョン・バニヤンの『天路歴程(てんろれきてい)』の中でも、
クリスチャンは旅の途中で「美しき家(The House Beautiful)」という休息の館に立ち寄る。
そこで彼は三人の女性――「分別」「敬虔」「慈愛」と出会い、深い対話を交わす。
彼女たちはクリスチャンに尋ねる。
「なぜあなたはこの道を選んだのですか?」
「世の誘惑は、まだあなたの心に残っていますか?」
「愛する者たちを信仰の道へと招こうと努力してきましたか?」
これらの問いは、単なる会話ではなかった。
それは信仰の鏡だった。
そして今も、その問いは私たち一人ひとりに向けられている。
信仰の先人たちが残した物語
美しき家の書斎には、信仰の先人たちの記録がびっしりと並んでいた。
ギデオン、バラク、サムソン、ダビデ、サムエル――
彼らに共通しているのはただ一つ、
神を信頼したということだった。
「この世は、彼らを容れることができなかった。
彼らは荒野や山、洞窟をさまよいながら、
信仰を守り通した。」
(ヘブライ人への手紙 11章38節)
彼らの物語は、クリスチャンにとって単なる知識ではなかった。
それは――信仰の武器であった。
苦難の炎の中でも、信仰の炎は決して消えなかった。
霊的な武装 ―― 神の全き武具
翌日、クリスチャンは「兵器庫」へと案内された。
そこには神が備えられた**全き武具(エペソ 6章)**が並んでいた。
真理の帯、
義の胸当て、
平和の福音を伝える靴、
信仰の盾、
救いの兜、
そして――御霊の剣。
彼がその家に滞在したのは、
ただ休むためではなかった。
再び歩み出すために――霊的に武装するためだった。
分別に導かれ、クリスチャンは再び「喜びの山」へと歩みを進めた。
そして、彼の巡礼は新たな確信と共に続いていった。
休みは終わりではなく、新しい始まり
――回復された者だけが、再び歩き出せる
ドイツで与えられた休息 ― 神からの贈り物
私がドイツで受けた休みも、まさにそうであった。
その場所で私は霊の食卓につき、
神のいのちをいただいた。
疲れ果てた心と体は回復し、
再び立ち上がる力を得た。
「美しき家」は到着地ではなく、
次の旅への跳躍台だった。
回復した者だけが、再び道を歩くことができ、
落とした巻物を取り戻した者だけが、
喜びの山を越えることができる。
六年のドイツ ― 神の備えた季節
私はドイツで六年を過ごした。
そこは留学の場ではなく、
神があらかじめ備えてくださった
“回復と霊的武装”の時間だった。
そこで私は三人の「信仰の同労者」と出会った。
ベーレント夫人(C. Behrendt)― 親のように私を世話してくれた慈愛の人。
ハイナー(Heiner Doersam)― 敬虔な友であり、言葉の壁を越えて手を差し伸べてれた人。 シュミット教授(U. Schmidt)― 分別の人。学問と信仰の道へと導いてくれた指導者。
彼らの愛と献身がなければ、今の私は存在しなかっただろう。
彼らこそ、私にとっての「分別」「敬虔」「慈愛」であった。
コウノトリと共にあった「休みの村」
フランス・アルザス地方のリボヴィレ(Ribeauvillé)は、
コウノトリと人間が共に暮らす村だった。
そこは神の創造の秩序がそのまま表れる「シャロームの村」だった。
私はそこで、いのちの秩序を改めて黙想した。
「コウノトリが赤ん坊を運ぶ」――
それは単なる伝説ではなく、
いのちの循環と神の愛の比喩のように感じられた。
ドイツ福音教会の寄宿舎 ― 信仰の共同体
私が暮らした寄宿舎は、ドイツ福音教会(Evangelische Kirche)が運営する共同体だった。
そこは、ある信徒が自宅を教会に寄贈してできた家であり、
お金のなかった私にとって本当の「神の家」であった。
毎週水曜日の夕方には、礼拝と聖餐が行われた。
韓国の教会とは異なり、
ドイツの教会ではほとんどの礼拝で聖餐がささげられる。
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠の命を持ち、
終わりの日に、わたしがその人をよみがえらせる。」(ヨハネ 6:54)
聖餐は単なる儀式ではなかった。
それは私の魂を再び武装させる時間、
もう一度歩み出す力を与える神の御手であった。
主の食卓と巡礼者の誓い
聖餐は過去の記憶ではなく、
「今ここでの出会い」である。
イエス様は今も語られる。
「あなたの食卓は、わたしが共にいる現在の食卓なのだ。」
そのたびに、私は心の中でこう告白する。
「主よ、今や私の内に生きておられるのは、私ではなく、キリストです。」
巡礼者の黙想
私はいま、どこで本当の休みを得ているのか。
私にとっての「美しき家」は、どのような姿なのか。
私は神の全き武具で身を固めているだろうか。
神が再び私を遣わそうとしておられる道は、どこにあるのか。
巡礼者の祈り
「主よ、休みを与えてくださり感謝します。
休みが終わりではなく、回復と新しい出発となりますように。
分別と敬虔、慈愛によって私を立て、
全き武具で私を整え、
再び巡礼の道を歩ませてください。
主と共にあるなら、どこであれそれは喜びの山です。
アーメン。」