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매거진 K문학

赤いスカートをはいた子供

by 이은주

単行本: 284ページ

出版社: ガン

著者:イ·ギョンラン

ISBN: 9788982182839

発売日: 2021/09/13


[著者プロフィール]

大邱で生まれ育った。延世大学国語国文学科を卒業して、しばらく雑誌作りをした。2018年文化日報の新春文芸に「今日のルーフトップ」が当選し、作品活動を開始した。小説集「五つの鋭角」、共同小説集「旅行時代」などがある。2021京畿文化財団創作基金を受け取った。


[目次]

ラーメンと紅茶とミジャ

メルセンヌ

赤いスカートをはいた子供

ヨンドゥ

十六歳の出来事

本日のルーフトップ

曜日パンツ・7点セット

イモたちの家

フェアウェル·スナップバック


作品解説_ 私に言う言葉

ジョン·ウンギョン

作家の言葉


[本の紹介]

2018年文化日報の新春文芸に登壇したイ·ギョンランの初の小説集である。

イ·ギョンラン小説の「少数」たちは「他人は地獄だ」というサルトルの言明、そして「関係は混乱した祝福だ」というバウマンの洞察の間を慎重に航海中だ。イ·ギョンランの最初の小説集は「混乱する祝福」のような関係を結ぶ局面を探索している。「関係」の中で「私」は「私たち」という二重の主体で縛られ、時にはその縛りから抜け出すことに成功し、それから再び孤立の中で絆を熱望し、そうして以前とは全く違う結束に安着したり、失敗したりする。

「曜日パンツ・7点セット」はこれをウィットある方式で読み解く小説だ。主人公は「二重主語構文」をテーマに国文学の博士号を準備しているが、たとえばこのようなものだ。「私はお金儲けがない」、「私はパンツがない」の文章で主語は「私とお金儲け」、または「私とパンツ」だということ。 叙述節という学術的探索はともかくこの「二重主語構文で本当の主語は何か」という問いは存在に対する探索につながる。「二重主語構文? 世の中は力のある一人が主体になるものだ。二人が並んで主体になるのを見たことあるのか。」(196~197ページ)話では、酔っ払って失ったパンティーを救うために東奔西走する主人公のハプニングを扱っているが「パンティー」一つ解決できない「主体」の貧弱さをブラックコメディで見せている。

二人が主体になれず、しかも自分の人生さえ主体として主導していくことができないという絶望は「メルセンヌ少数」という単独者に対する熱望を生む。

「メルセンヌ」で主人公のオムさんは30年間、数学教師を勤め、名誉退職してからアパートの警備の仕事をしている。マンションの住民やコミュニティなどに接し、オムさんは変わった「アジメ(おばさんの方言)」を知るようになった。彼女は卓球会員ではないのに卓球場の周辺を回りながら会員たちににらまれている。メルセンヌ少数から来た「メルセンヌ」という別称は話し手のオムさん、あるいは作家がつけたものでこの作品では「単独者」の中でもより珍しく貴重な存在を意味すると言える。オムさんにとって「メルセンヌ」とい女性は他人とのコミュニケーションを恐れ、依然として少数の存在であり、世界を広げることに無関心であるか無能な自分のような存在を意味する。彼女に対する感情移入はメルセンヌ少数のように疎外された全ての人々に対する憐れみの表出を意味する。単独者の自由はそれが独立的人格として社会に定着した時に可能である。まだ普遍的な人権に入ってない「少数者」、「弱者」が他人と関係を結ぶ時にはほとんど「暴力性」を持たざるを得ない。小説集の表題作「赤いスカートをはいた子」はこうした暴力性を繊細な文体と不気味なイメージで暴露している作品だ。誰にもまもられなかった幼い少女の恐ろしい不幸を作家は語り手のゆっくりした歩みとともに鋭く磨いて文章にした。「赤いスカートをはいた子供」が流した血とそれによる不幸な生は誰に責任を問うことができるのか。この作品はその暴力に対する告発であり、犠牲者に対する遅ればせながらの哀悼である。それにもかかわらず「私」が勇気を出して取り出すその過去の傷によってもう一つの潜在的暴力は停止され、この記憶の敍事を通じて「赤いスカートをはいた子供」に象徴される多くの犠牲者たちは慰められる。

作家の登壇作である「今日のルーフトップ」は「少数」の存在論に対するもう一つの探索を見せてくれる。スイは偶然隣の建物の屋根部屋に閉じ込められたもう一人の「少数」を発見した。一日中部屋に横になって階下に住む嫁が持ってきてくれる食べ物でただ「延命」するように生きていく老人はスイのように「一人」だ。スイはテレビを口実に彼の屋上部屋に出入りするようになり、一緒にテレビを見ることで「一緒にいる」ことを経験する。彼らの間に疎通はないが、ただ時空間を共有することで慰め合う。スイはこの完全な他人によって初めて自分の存在を確認しさらには世話をすることで能動性を回復していく。

少数から合成数への変転が示す「混乱する祝福」は「イモ(叔母)たちの家」の方がより和解したように描かれる。共働き夫婦のユジンとジンさんは幼い息子ミンスのため入居イモの助けを受ける。 ユジンは幸せな家庭にいる2人のイモを快く思わないが、表現性言語障害を患うミンスがイモたちによって言葉らしき発音をするようになるのを見てこのおかしな共同体を受け入れる。

「ラーメンと紅茶とミジャ」はこのゆるやかな絆をもう一度実験してみせる作品だ。主人公である「彼女」はミジャという老人と同居している。これらは「姑と嫁」という関係を結んでいるが、重要な媒介である夫は欠けている。夫はバブルのような彼の財産と共に消えてしまい「彼女」は一人残される。徹底的に契約関係で結ばれた使い捨ての連結ではなく持続的な絆で結ばれた他人をたとえ夫がいなくても、息子がいなくても「私に言う言葉」を聞いてくれる「あなた」を通じて人生が温かくなり、明日をまた希望するようになれば家族であり恋人であり友達である。


[著者の言葉]

両親は初めて手にした小さな家の部屋を一つ貸してくれた。5人の娘を世話することも大変だったはずなのに狭い家を貸した理由は経済的な事情だったが私の幼年期は部屋を通った間借り人たちのおかげでより多彩な模様を模様を呈するようになった。10歳の頃部屋の間借人は孫2人の世話をするおばあさんだった。子供は離れて金儲けをし、孫たちは都市で学校に通うために祖母が子供たちを引き受けたのだ。彼らは長居はしなかったが私に特別な柄をプレゼントして立ち去った。暖かくて美しい友情のようなものではなくその部屋と部屋の前の縁側で安全ピンをさわっていた記憶だ。。。

初めての小説集を結ぶことになった。誰かに訪ねてくると聞いていた「あの方」は私のところに一度も来なかった。告白すると「あの方」の存在を私は信じない。ただ安全ピンを組み立てるように一字一字書いていくだけだ。呼吸を調節しながら指に力を入れて尖ったピンの前で少し緊張したあの時のように。あっという間に痛い目に遭ったりもしたあの時のように、油断すると台無しになってしまう文章と人物を慰めて世の中に送り出す。


[推薦評]

私たちはフェイスブックやインスタグラム、ティクトクの短い瞬間が支配する世界を生きている。イ・ギョンランの小説はそのような瞬間が捕らえない、いや必死に逃げる人生の真実を冷静に見つめている。そこにはお母さんに面倒を見てもらえない短いスカートの少女がいて不幸な結婚をこと日割りに計算して耐える「コンビニのアルバイト」出身の女性がいる。しかしイ・ギョンランの小説が語るのは「貧乏さの嫌らしい」ことではない。はしごを無くしたこの世への非難でもない。イ・ギョンランの小説は悲しくても残酷でも誰かが立っているその地点を冷静にしっかりと見つめる。むやみに他人を咎めることもなく世の中を咎めることもない。イ·ギョンランが言いたいことはどんな場でも各自が少数で堂々と立つこと、少数と少数が各自の存在を認めること! 「これが大変でたまらない」と悲鳴を上げるのに忙しい今日の私たちに聞かせるイ・ギョンランの人生論だ。

チョン·ジア (小説家)


時代のルールや社会的な因果関係ですべての難境を還元しようという強迫から脱しながらもイ・ギョンランは国外者の格別な愛と挫折と熱望に対する共感の圏域を決して捨てない。イ·ギョンランの小説が私たちに求める共感はたとえ散らばっているとはいえ、実は全て緊密につながっている個人が相互生成者(inter-becoming)であるという点に根拠を置いている。自分と他人が互いに頼り合って連帯する存在であることを知りながら、他人の苦しい感情に「自分もそうだ」と感じる瞬間をイ・ギョンラン小説は繊細に描き出し滑らかにプレゼントする。どれも滞りなくよく読まれる文章、多彩な話法とスタイル、事件や空間の経験的具体性はすべてイ・ギョンランが多様に創造した同時代の「人間劇(La Come die humaine)」の核心要素だろう。今我々は文学が希望や絶望に介入する有り様を表現するイ·ギョンランならではの方式に読者の関心がつながり、『作家イ·ギョンラン』の誕生が驚異的に実現する瞬間を心強くほのかに見守ろうと思う。

ユ·ソンホ(文学評論家、漢陽大学教授)

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