2010?2011?年のものと推定される記録
「真理を得る」って、「何かに気づく瞬間」であって、それを自分のものにして持続するのはまた別のことだと思えます。
「知っている」けど「実践する力」が備わっていないのは、
「愛している」と言うけど行動として表現できないのと同じかも、という感じです。
むしろ、「たとえ(言葉を以って何と言うか)知らなくても(自然に)実践できている」状態を夢みる最近です。
愛であれ言語であれ哲学であれ美術であれ学問であれ処世術であれ、全てにおいてそう願っています。
「自然に;母国語をしゃべるのと同じように」です。
母国語をしゃべるのと同じように自然に人を愛し、
母国語をしゃべるのと同じように自然に外国語をしゃべり、
たとえ今はその文法が説明できなくても物事を母国語のように哲学し、
たとえ文法が多少ぎこちなくても母国語のように自由な一つの言語を言語じゃないものから自由に作り出し、表現する。
いびつさが放つ魅力のすごさって何となく納得です。いや、かなり納得。言葉では説明し尽くせない何かこそが魅力かも…。
彼女ほどあるべき「愛」の姿について語っていた人はかつていなかったけど、ここまで「愛」を感じられなかった人もかつていませんでした…。
私も時々人々からそういうことを感じます。「こう生きるべきだ」といつも話している本人に限ってその生き方を口でしかとっていないとか。